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神谷美恵子「生きがいについて」書評

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https://www.amazon.co.jp/dp/4622081814

 語学の天才でありGHQとの折衝も務めた*1知の巨人・神谷美恵子氏が生きがいについて記した本である。

 さてこの本、書き出しから重い。

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。

 この本のテーマは生きがい、つまり生きる目的ということになるが、そのニュアンスはかなり重めである。つまり、普通の生活を送っている人がいかにその生活に意義を見出すかというよりは、挫折、重病、死別といった絶望に叩き落された人間が、その中でいかに再び生きるに値する希望を見出すかという、それこそ「死ぬか生きるか」というレベルの「生きがい」について論じている*2

 著者の神谷美恵子氏はその生涯をハンセン病の患者への治療に捧げた点でも著名である。当然、本書でもハンセン病やその患者に対する記述は多いが、それはこのような「死ぬか生きるか」について論じるにあたって自然な流れと言える。

 ハンセン病は肉体の変異を伴う病気である。そしてその変異は醜い。いくら感染力が少ないと言っても、その化け物じみた外見への変異は、罹患者への偏見を容赦なく呼び起こす。罹患者は親友や家族からも縁を切られ、二度と普通の社会に戻れない絶望へと叩き落される。

 その一方で、幸か不幸か、ハンセン病自体によって命を落とすことは少ない。つまり罹患者は、精神的には死んだも同然になりながら肉体的には生きているという一種の二律背反の状態に置かれ、これこそが大きな絶望をもたらすと言える。もしハンセン病が短時間で死に至る病であれば、どれだけ身体が醜く変異しようとも、罹患者や家族に大きな葛藤をもたらすことはなかったであろう。

 しかし、「精神的には死にながら肉体的には生きている」という状況はハンセン病に特有のものであろうか。もちろんそうではなく、絶望の縁に立たされた人間は大なり小なりこの二律背反に置かれているのだ。本書はこの点について、表現を変えながら何度もそれを強調している。

らいのひとたちの持っている問題も、結局、人間がみな持っている問題を、つきつめた特殊な形であらわしているにすぎないのであるから、

 

しかしこれは何も病気の場合に限ったことではない。すべて生きがいをうしなったひとの意識において、心と体はばらばらになる傾向がある。

 

しかしこれはレプラ*3のひとに限ったことではない。たしかに彼らの状況は最も「限界状況的」なものの一つにちがいないけれども、人間の持つ本質的な問題をただ極端な形であらわしているにすぎない。

 つまり、精神の死とそこからの復活は人間にとって普遍的なテーマであり、ハンセン病はその最も端的なインスタンスであると言える。愛生園*4ハンセン病の患者を(そしてその精神的復活の過程を)見続けてきた著者は、その精神の回復のはたらき、つまり「生きがい」についてその本質を述べるに相応しい立ち位置にいると言えそうだ。

 ではこの本はそのような「限界状況」に陥った人のための処方箋なのだろうか? 冒頭を読む限りではそのように思えるが、しかしそうではないと思える箇所もある。

社会的にはどんなに立派にやっているひとでも、自己に対してあわせる顔のないひとは次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなる。

 

たとえ表面ではあたりさわりなくやっていても、心のなかでしゃんと顔を上げて生きるためには、何か自分なりの新しい価値体型をつくり出す必要にせまられる。

 つまり、平穏な生活を送っていても、やはり何かしら生きがいがないと惨めですよ、とも取れる主張をしている。これはこれで厳しい態度ではなかろうか。安穏と暮らしいても、生きがいを求めて邁進することを暗に強制されるとは!

 それを論じるにあたって、本書で描かれる生きがいの再獲得について見ていきたい。本書に出てくるそれはかなり宗教的なニュアンスがうかがえる。もちろん特定の宗教に加担するような書き方はしていないが、暗闇の中で光があらわれ、使命感に突き動かされるというような描写は、まさに宗教的体験と相似形であるように思われる。

 もちろんこれは避けられないことであろう。というか、恐らく絶望の淵から喜びを見出すような過程は大なり小なり宗教的感覚と無縁ではいられないのだろう。逆に、人間には絶望から抜け出すための心のはたらきが備わっていて、その発露が宗教となって現れている、とも考えられる。例えば、著者は芸術について以下のようなホワイトヘッドの引用を添えている。

芸術は、人類が、その生存のストレスに対して示した精神病理的な反応である、といってみることもできる

 この文において、「芸術」を「宗教」に変えても何ら違和感はない。

 先に述べたように、本書で述べられる生きがいの再獲得というものは絶望(最もわかりやすい例はハンセン病)に立たされた人間がいかに再び希望を取り戻すか、という「死ぬか生きるか」の問題である。

 しかし、生存のストレス、端的に言えば、この世に強制的に産み落とされ、そしていつかは死んでいくという理不尽な運命を提示された人間は大なり小なり絶望に囚われた弱い存在であり、その中から希望を見出すためには、使命感を伴う生きがいを再発見しなければならないのではなかろうか。それであれば、やはり本書籍は特定の苦境に立たされた人達のための本であるだけでなく、万人に向けての書であると言える。

 ここでもう一度、怠惰な側の人間に立ってみよう。毎日の生活に追われるだけの人間からすれば、やはりこのような「生きがい主義」とも言える考えはどうにもストイックというか貴族的だ。パンがなければお菓子を食べればいい、ではないが、生きる意味を考える余裕もなければ正直その自信もない、という人間がほとんどではなかろうか。

 この点について以下のような記述がある。

かりに平和がつづき、オートメイションが発達し、休日がふえるならば、よほどの工夫をしないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではないだろうか。

 現実はどうだろうか。本書が発行された年(1966年)に比べてオートメイションは限りなく進んだ。しかし競争社会はますます激化し、格差は拡大し、人類はそれほど余裕が増えたようには見えない。またその余暇の潰し方も、神谷氏が理想とする精神的なそれとはかけ離れた人も多いように思える。

 技術の発展にともない人類が贅沢病を謳歌できたのであれば、生きがいの追求は現代人の最も大きなテーマになったかもしれない。だが人類は、種レベルでは技術を活かして休日を増やすほど賢くもないし、個体レベルでいえば余暇も享楽的に過ごしてしまう愚かな動物に過ぎないのかも知れない。

 ひとつ言えることは、どのような時代であれ、その中であなたが自分の人生と向きあうとする限り、本書で述べられている内容がその助けとなることは確かであろう。

*1:ついでに医者にもなっている。我々とは知能のレベルが違いそうだ。

*2:神谷氏自身が体験した絶望と回復の自伝であるという側面もあるらしいが、その点については深く追求しない

*3:ハンセン病のこと

*4:ハンセン病患者の療養施設。隔離施設という側面もあるが。